和製ウォーター・ポロ
英国発祥のウォーター・ポロが日本に伝わる以前から、我国においては、ウォーター・ポロと類似した水中球技が行われていたようである。その例として、「打球戯(投球戯)」や「西瓜取り(水瓜取)」をあげることができる。
1898(明治31)年、嘉納治五郎は、嘉納塾など自身の私塾を統合して造士会を結成したが、水術の練習にも力を入れ、夏に水泳場を開設した。そこでは水術訓練の一環として日本泳法の修得や、打球戯を実施している。造士会の機関誌「國士」によれば、「本会は去る(明治32年)七月二十五日より八月二十一日に至る四週間、相州三浦郡松輪に游泳場を設け、(中略)全員を紅白両組に分ち、水中に打球戯を催ふして、遊戯中に技術を修得せしめ」とある。
1898(明治31)年、嘉納治五郎は、嘉納塾など自身の私塾を統合して造士会を結成したが、水術の練習にも力を入れ、夏に水泳場を開設した。そこでは水術訓練の一環として日本泳法の修得や、打球戯を実施している。造士会の機関誌「國士」によれば、「本会は去る(明治32年)七月二十五日より八月二十一日に至る四週間、相州三浦郡松輪に游泳場を設け、(中略)全員を紅白両組に分ち、水中に打球戯を催ふして、遊戯中に技術を修得せしめ」とある。
【文献】造士会(1889):國士.12号(明治32年9月5日),pp.34-35.
本邦初の水球の試合
明治40(1907)年8月5日、館山(千葉県)北条海岸において第二回関東総合游泳大会が開催され、東京高師付属中学、開成中学、早稲田中学、川越中学、一高、外国語学校および東京高師の7校が一堂に会して水泳の技を競い合った。その大会においては、各種競泳や模範泳法が実施された他、遊戯として西瓜取りやウォーター・ポロが行われたことが記録されている。大会の様子を記した記事によれば「遊戯はとりどりに面白く、勇壮なる西瓜取、(中略)活発なるウォーターポーロなど、演者も観者も興じて時の移るを知らず」とある。
【文献】東京高等師範学校校友会(1907):校友会誌.第14号, pp.117-118.