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スポーツと文化を通じての貢献は大事なこと ブルボンの吉田康社長
2017年10月7日
今年6月、江戸時代初期の古い人形浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」がロンドンの大英図書館で凱旋(がいせん)上演されて成功を収めたことは記憶に新しい。8年前の約300年ぶりの「御伝記」復活公演の協賛など、世界に誇るべき日本の古典芸能などを地道に支援する企業がある。新潟県柏崎市に本社を置く製菓会社大手ブルボンである。4代目社長として就任21年となる吉田康社長に、近年広がる企業の社会貢献活動への取り組みを聞いた。インタビューで、吉田氏は世界的な日本文学者ドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授の業績などを紹介する国内唯一の資料館「ドナルド・キーン・センター柏崎」の運営に絡んで、後継者不足などに悩む古浄瑠璃をきちんと継承するための拠点として整備活用する方向で検討を始めたことを明らかにした。【聞き手・中澤雄大/統合デジタル取材センター】
大震災が契機……創業精神「地域のお役に立ちたい」
--2013年9月に開館した「ドナルド・キーン・センター柏崎」の運営といった文化事業をはじめ、水球やテニスといったスポーツも熱心に支援されていますね。
振り返れば、これまで経験してきた震災を契機にして、地域のお役に立とうという企業理念を強めてきたと思います。創業当初、和菓子店を営んでいた初代あるじの吉田吉造が関東大震災(1923年)の際に「栄養があって、保存もきくビスケットを工業生産しよう」と考えました。それが旧「北日本製菓」の創業精神です。
私も四代目を継いだ後、自問自答してきました。先代の三代目社長・吉田高章から「ビスケットや米菓、チョコレートなど菓子の種類を広げるだけでなく、次にどうすべきか」と考えるように言われ、ミネラルウオーターの生産を提案しました。ペットボトル入りの水が普及する前の話です。山形県内に豊富で良質な水源が見つかり、一貫生産することになりました。テスト生産をして、ちょうど県に見てもらった日が1995年1月17日、阪神大震災が発生した日だったのです。
--偶然ですね。どう対応されましたか。
すぐに被災地までピストン輸送を始め、翌朝には神戸に届けることができました(2リットルのボトル約7500ケース、合計約6万本を提供)。子供が学校に持って行けるサイズがほしいとの声に応えるために、持ち運びやすい500ミリリットルの量産を始めました。また、中国の四川大地震(2008年)の時にもお送りしました。先日のメキシコ地震は距離的に遠いため、水よりも義援金の方がいいのかもしれない。災害時に、あって良かったな、というものを提供できるよう努めています。
テニス、水球、社交ダンス……防災と減災、スポーツと健康増進の二頭立て
--同時に人材育成にも長年取り組んでおられますね。
先代社長が「吉田奨学生財団」を作りまして、当初は新潟県内だけだった対象を、今では隣県の山形まで広げました(17年3月末で累計529人を支援)。
--次代の人材育成と文化・スポーツ事業。理念は共通しますか。
最近、CSR(Corporate Social Responsibility)と呼ばれる「企業の社会的責任」や、企業の利益と社会的課題の解決を両立させることによって社会貢献を目指すCSV(creating shared value)という経営理念が指摘されるようになりました。経済活動を考える上で、スポーツと文化を通じての貢献は大事なことだと。我が社も地域と共に長期的な関係を築いていくことが求められている。15年に新本社ビルを創業の地のJR柏崎駅前に建てたのも、ここから本社を移しませんよ、というサインを出させてもらったわけです。
--スポーツ支援について教えてもらえますか。
政令市や中核都市といった規模であれば、野球やサッカーなど、メジャーな競技を呼び込むことができるでしょう。しかし、柏崎のような地方の中のさらに地方都市では、そうしたものは難しいでしょう。最初はテニスへの支援で、東京・有明コロシアムの協賛をやり、その後、兵庫県三木市に県立三木総合防災公園屋内テニス場を「ブルボンビーンズドーム」と、ネーミングライツさせてもらっています。そこは全体が防災センターになっていて、防災時にお役に立てる、という我が社のコンセプトに近かったためです。
毎日新聞社が関わるダンススポーツ連盟の大会にも支援させてもらっています。老若男女、体を動かすことが健康につながる。うちは食品会社ですから、健康増進を支援していくところへとシフトしていかなければならない。まさに防災と減災、健康とスポーツの二頭立てです。
--水球への支援も熱心ですが、きっかけは?
新潟県で戦後2回開催された国体で、柏崎はいずれも水球が当番だったんですよ。この9月に亡くなられた新潟産業大の広川俊男元学長が「水球の街づくり」に一生懸命でした。元水球日本代表主将の青柳勧さんを勧誘し、「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎(ブルボンKZ)」の設立に携わるなど、世界で戦える選手の育成にも力を入れています。
全国的に厳しい文学館運営 「本業が頑張れば、何とかなる」
--文化事業への支援について、おうかがいします。そもそも古浄瑠璃「弘知法印御伝記」への協賛をはじめ、「ドナルド・キーン・センター柏崎」を造ろうと発案されたきっかけは何ですか。
フジテレビが続けている一般市民向けのクラシック・コンサート「めざましクラシックス」に20年近く協賛しています。07年に中越沖地震が起きて以降、キーン先生とのお付き合いが始まりました。やはり11年の東日本大震災の影響が大きいですね。「弘知法印御伝記」も、キーン先生が、中越沖地震で被災した柏崎ゆかりの「幻」の古浄瑠璃台本があると橋渡ししてくださって、約300年ぶりとなる復活上演を支援していくことになったわけです。その後11年春にキーン先生が米コロンビア大を退官されることを知り、ニューヨークの部屋を引き払って日本に永住されるというので、「膨大な蔵書があって大変でしょうから、いったんお引き取りしてもいいですよ」と申し上げたのです。
--「ドナルド・キーン・センター柏崎」内に復元されたニューヨークの書斎と住まいは、窓辺から見るハドソン川の夕暮れまで表現されていて驚きました。
ちょうど研修センターにするために、耐震補強するなど改修をしていたところでした。うまくタイミングが重なったんですね。1~4階建ての2階部分の天井が高いことから、ニューヨークの書斎やリビングがすっぽり収まることが分かりましてね。
--冬期間は休館されますが、柏崎観光の核としては厳しいですか。
冬場は(道幅が狭いなど)除雪作業とかいろんなことがあるので、なかなか厳しいです。他の文学館にもいろいろお聞きすると、入場客数は伸び悩んで苦戦されていますよね。昨年の入場者は2791人、累計で1万5530人が来館しています。
ただ、私たちの本業が頑張りさえすれば、センターの運営資金となる配当は何とかやりくりできます。企業本体が頑張って、ブルボン吉田記念財団がいろいろなところにお分けする。継続できる範囲でやってくださいと。上場企業であるから、入りに合ったかたちで、出の方も考えるわけです。あまり派手にもできませんしね。
不思議な巡り合わせ 人の縁が結んでくれた
--6月のロンドン公演と中越沖地震復興10年を記念して、9月24日に柏崎市内で開催した8年ぶりの「弘知法印御伝記」は大盛況でした。柏崎では人形浄瑠璃文楽のイベントがその後も続きます。古典芸能の街としてアピールする狙いがあるのでしょうか。
柏崎市としてはそうしているのでしょうね。確かにキーン先生とのご縁が生まれたきっかけの中心は「御伝記」ですが、キーン先生の多大な業績からすると、それはほんの一部分なんですよ。コロンビア大にもキーン・センターがありますから、米国と柏崎のあり方をどう考えていくかが大事になってきます。完全には連携できておらず、情報交換している程度なので、今後いろいろと考えなければいけないね、と言っているところです。
--これまでの経過を考えた時、不思議な巡り合わせを感じます。後にキーンさんの養子となる旧姓上原誠己さんの実家が営んだ酒造会社による日本初の地ビール「越後ビール」を、御社が支援されたことがきっかけの一つとなりませんか。10年に越後ビールを完全子会社化されましたね。そもそもブルボンの吉田家と上原家が縁戚関係にあって、それがもとで「弘知法印御伝記」公演協賛につながっていったのでは?
いや、あまり関係ないですね。それを意識をしたら、日本酒までどうするか、という話になってしまう。縁戚関係に関係なく、ビジネス的に決めたわけです。当時の地ビール第1号であり、その灯を消しちゃいけないという同じ新潟県人としてのスタンスで、地ビールを支援しましょうと。日本酒については、創業家として自分たちで決めてくださいというスタンスでした。その意味では親戚うんぬんではないですね。
--そうした時期に、キーンさんと誠己さんが出会って、信頼関係が深まり、後の「弘知法印御伝記」の復活上演につながっていったわけですか。
そうそう、誠己さんも、事業譲渡によって家業を手伝わなければいけない部分が軽くなったし、当時苦しんでいた病気(C型肝炎)も治癒した。そうして再び(大阪文楽座で長年務めた)文楽三味線をやり始めたと。私の家内(吉田眞理ブルボン吉田記念財団理事)も手伝って、趣のある柏崎の史跡・飯塚邸で弾き語りをしたわけです。好評に終わって、誠己さんも自信を付けたのでしょう。それからすぐに、キーン先生に古典の教えを請おうと上京し、面識もないのに(講演先の楽屋のドアを)ノックしたそうですね。
--驚かれたでしょ。
昔から知り合いだったのかと聞いたら、全く知り合いでもなかったと(笑い)。お会いするうちに本当に波長が合ったんですね。
「弘知法印御伝記」……後継者育成が喫緊の課題
--そこから「御伝記」復活上演、3・11、コロンビア大退官、センター建設……激動が続いていきます。
キーン先生から誠己さんに「弘知法印御伝記」という台本の存在が教えられました。「大英博物館で、鳥越文蔵先生(早大名誉教授)が1962年に発見したけれども、上演されていないので、復活させてみたらどうですか」と、キーン先生が台本のことを覚えておられて、誠己さんに勧められた。そこから急速にいろいろまとまっていったわけです。我が社も、改修を進めていた研修センターにニューヨークの書斎などを移築しようとかね。11年3月11日に東日本大震災が起きて、当時ニューヨークにおられたキーン先生が大学での最後の授業で「日本に帰るだけじゃなくて、日本人になります」とおっしゃったことが、強く背中を押してくれました。津波被害だけでなく、東京電力福島原発事故が恐れられていた中、キーン先生の力強い言葉に励まされて、皆が踏ん張ることができました。そのことに恩義を感じて、何かを残さなきゃいけないと考えたわけです。
--ドナルド・キーン・センター柏崎の始まりですね。
キーン先生は原発がお嫌なんだけど、「原発の近くの柏崎でもいいですか」「いいですよ」って。周囲の方々の支援も得ることができて、センターを造ることができました。
--膨大な蔵書の引き受けは、誠己さんから頼まれたのですか。
いえ、全然聞いていなかったです。そうじゃないかなと、こちらで察したんです。先代社長が読書家でして、突然亡くなった時に、たくさんの本をどうするかと大変だった経験がありました。キーン先生はご高齢なので、その処理をするのは大変だろうと考えたわけです。最初は「記念館でいいですか」とお尋ねしたら、「ワタシ、まだ生きています。センターにしてください」って。記念館だと、英訳では「メモリアル」になってしまいますものね(苦笑)。
さらに退官後も米国のセンターはそのまま残るというので、区別するために「柏崎」と名付けました。将来的に学芸員を増やすなど、浄瑠璃以外の部分ももっと充実させなければいけないですね。
--後継者育成が喫緊の課題であると、誠己さんや人形遣いの西橋八郎兵衛さんも口をそろえています。「御伝記」も演じ手が足りず、全六段を上演できないでいます。
まだ検討の入り口ですが、恒常的に練習したり稽古(けいこ)したりする場所は造れるかもしれない。入館者数が苦戦しているように、ここに見に来てください(というプラン)では、なかなか難しい。物件的にも、本格的に(西橋さんらの)「猿八座」が常駐する場として改装するにも難しいと思う。やはり継承としての場でしょうね。
センターとしては新しい文化支援になりますから、慎重に検討しています。上場企業でもあり、あまり無理はできない。あくまでやれる範囲で考えていきます。細々でも支援を続けることが大事なので、何とか達成していきたい。稽古で使う分には何とかなると思う。そうした継承の場ができて、伝統文化に関心を持つ人が、ボランティアを含めて集まってくれたらうれしいです。我々だけでなく、他の企業さんや地域の学校や教育委員会にも協力してもらえたら、ありがたいですね。
よしだ・やすし 1955年、広島県生まれ。名古屋大卒。79年、旧北日本食品工業(現ブルボン)入社。先代社長の故吉田高章氏の女婿で、96年1月から社長を務める。公益財団法人ブルボン吉田記念財団理事長も兼任。「響働」をキーワードとし、社会貢献にも積極的に取り組んでいる。