Quantcast
Channel: 猫と、水球。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1906

夢かなえた3つのカイゼン

$
0
0

日本経済新聞http://www.nikkei.com/

水球日本、32年ぶり五輪 夢かなえた3つのカイゼン

 2016/1/14 6:30

 「出発時はカメラ3台だったのに」。水球男子日本代表の大本洋嗣監督(48)は、リオデジャネイロ五輪予選を兼ねたアジア選手権(昨年12月、中国)で32年ぶりとなる五輪出場を決めた反響の大きさに驚く。取材するメディアの数は急増し、羽田空港に帰国した際はカメラの放列が待ち受けていた。

 水球男子の日本は五輪に過去7度出場したが、1984年のロサンゼルス大会を最後に遠ざかっていた。4年前のロンドン五輪予選の頃の代表は過去最強との呼び声も高く出場への期待が膨らんだが、ライバルのカザフスタンや中国に競り負けた。最年長選手の筈井(はずい)翔太(29)は「失点は少なかったが、シュートを大事にいき過ぎた」と振り返る。

 失意の予選敗退から4年。水球日本が五輪出場を決めた背景には、練習環境と支援体制の拡充、選手の海外挑戦、過酷な練習で培ったチーム力という3つの「カイゼン」があった。

イメージ 1
アジア選手権の中国戦で攻める日本チーム(右)。快勝した日本は32年ぶりの五輪出場を決めた=共同


クラブチーム創設、劣悪環境に風穴

 水球の国内練習環境は「大学卒業は選手生活の終わり」と揶揄(やゆ)されるほど劣悪で、卒業後も競技を続けることは難しかった。プロチームは存在せず、個別の活動を強いられたトップ選手はアルバイトをしながら生計を立てるか、学生のままでいるかの選択を迫られた。

 風穴を開けたのが2010年8月、新潟県柏崎市にできたクラブチーム「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎」だ。イタリアのプロリーグなど世界最高峰の舞台で活躍してきた青柳勧(35)らが中心となって有力選手の受け皿を作り、ブルボンや地元企業で働きながら水球に打ち込める環境を整えた。筈井も同チームに所属している。支援の輪は他の企業や教育機関にも広がり、才能ある若い選手が競技を続けやすくなった。

 資金面での支援も拡大した。水球の強化予算は例年、「2000万~3000万円」(関係者)だったが、15年は協賛企業が増えたことで増額された。自国開催枠のある20年東京五輪の前に「どうしても自力で出たい」(大本監督)との思いが届き、日本水泳連盟が予算を手厚く配分したのだ。

 男子日本代表は予算を活用して最終予選の1年前に計200日の合宿に取り組み、強豪国のハンガリーやオーストラリアに遠征した。海外でプレーする選手に水泳連盟が資金面で手助けしたのも効果があった。

 水球はキーパーを含め1チーム7人でプレーし、相手ゴールに得点を入れる競技だ。水深2メートルの足の付かないプールで選手が激しくぶつかり合うことから、「水中の格闘技」といわれる。体格の大きさが有利に働くため、平均身長で190センチを優に超える欧米各国の選手に比べて小柄な日本人選手は劣勢に立たされることが多い。

 海外リーグに参戦したポイントゲッターの竹井昂司(25)は「ハンガリーで体の大きい選手と戦ったことで、中国などアジアの選手とやっても大したことないと感じた」と話す。主将の志水祐介(27)も「一戦一戦の勝負に対するこだわりや勝負強さを磨くことができた」と収穫を口にする。

イメージ 2
リオデジャネイロ五輪出場を決め、トロフィーを掲げ喜ぶ志水主将ら水球男子の日本代表=共同


 筈井は大学卒業後、スロバキアに渡った。体格に勝る欧州の選手がキーパーと1対1で放つ「フリーシュート」のパワーは、日本人選手とは比較にならなかった。イタリアやハンガリーでもプレーし、シュートを積極的に打って得点することの重要性を痛感した。一方で、自身の強みであるスピードが通用する点を再確認できたという。

イメージ 3
筈井(前列右端)はスロバキアの水球チームで練習を積んだ

ラグビー代表さながらのハードワーク

 最終的に五輪切符をたぐり寄せたのは、日々の練習とハードワークに裏打ちされたチームの団結力だ。世界との実力差が縮まらないなか、ロンドン五輪を逃した12年にチームへ復帰した大本監督は、相手のパス回しを阻止するディフェンスを新たに打ち出した。

 泳ぎながら守り、ボールを奪ったら素早いカウンターに出る――。体格で劣る日本人が勝つためにはこれしかないと考えたのだが、この方針に対して選手の間で不満が噴出。教科書に反する手法で勝てるのかという漠然とした不安も大きかった。

 こうした中でも根気強く取り組んだのが、泳力強化やウエートトレーニングだった。日本の武器である泳力とスピードを生かすため、15年10月に実施したグアム合宿では1日に最長1万メートルを泳ぎ、ウエートも欠かさなかった。「地獄の9日間」(筈井)で心身を追い込み、ワールドカップで大躍進を遂げたラグビー日本代表さながらのハードワークを続けた。

 最終的にチームの仕上がりの良さを実感したのは五輪予選の直前、15年11月下旬からのオーストラリア遠征においてだった。オーストラリア代表との練習試合やミーティングを重ねてチーム力が格段に伸びた。

 中国で開かれた五輪予選で、日本は完全アウェーの状況下に置かれた。それでも宿敵のカザフスタンと中国に勝利。優勝とともに五輪出場という最高のご褒美がついてきた。
 
「ちょっと泣けた」。筈井は五輪出場決定の瞬間を照れくさそうに振り返る。歴代の日本代表が跳ね返されてきた扉を32年ぶりにこじ開けられたのは、選手やスタッフ、水泳連盟、支援企業の力が一つに結実したからだ。気の早い水球界の一部関係者は、ラグビー日本代表が南アフリカに勝利した奇跡の再来を期待するが、選手たちは至って自然体。「しっかり準備したい。そして楽しみたい」(筈井)

イメージ 4
筈井(右)は五輪出場決定の瞬間を「ちょっと泣けた」と照れくさそうに振り返る

〔日経QUICKニュース(NQN) 原欣宏(早稲田大学高等学院水泳部監督)〕







Viewing all articles
Browse latest Browse all 1906

Trending Articles